【プリマジ16話】SNS媚びと魔法による暴力の問題

TVアニメ『ワッチャプリマジ!』第16話 先行場面カット・あらすじ到着! | アニメイトタイムズ (animatetimes.com)より

このような経緯があり、プリマジを見ることになりました。

で、現在16話まで見たのですが……
この16話がかなり語れる要素の多い回だったので記事にすることにしました。
中々のボリュームでしたね。

おそらくリアタイで追っかけてらっしゃる方はもう内容を忘れている頃だと思うので、まずあらすじを。

あらすじ

第16話「橙真の『マジ』 ひゅーいの『マジ』」
飴作りの修行に励む橙真の元へ、突然ひゅーいがやってくる。ひゅーいは「願いをかなえてあげる」と言い放つと、”まつりに会いたい”という橙真の無意識の願いに応え、魔法界へと向かう。しかし、その様子を伺っていた怪しい魔女が、ひゅーいが目を離した一瞬の隙をついて、橙真を誘拐してしまうのだった。その頃合宿所では、不穏な動きをいち早く察知したフェニックスが、橙真の危機をまつり達に伝える。すぐに魔法界へ向かい、全員で橙真を捜索していると、ひゅーいとみゃむが魔女の住処を発見する。はたして、橙真を無事助け出すことが出来るのか!?

公式サイトより

という感じの回だったのが16話。
この回について今回は掘り下げていこうと思います。
話題となるのは3つの問題です。

1,そっち(ストーリーモノ)で良いのか問題
2,チュッピにウケたすぎ問題
3,「プリマジの必要性なくね?」問題【魔法という暴力装置

1,そっちでいいのか問題

過去に何度か語りましたが、世の中には
・明確なストーリーの存在するストーリーモノ
・ストーリーは特に存在せず淡々と日常が続いていく日常モノ
の2パターンがあり、プリマジはその中間でたゆたっていました。


しかし、段々とプリマジはストーリーモノのニオイをまとっていき、この16話にて完全にストーリーモノの路線に乗った気がします。

自分は日常モノよりもストーリーモノの方が好みなので、コレについては好意的に見ています。
ただ、1つだけ懸念点があります。
それは「ストーリーモノとしてやっていくとしたら競争相手はプリリズとかプリパラになるんだが、それで大丈夫か?」という点です。

プリマジは今のところ、キャラクターに属性づけ(腹黒とかオタクとかヤンキーとか)がされています。
なので、上手くやればキャラクター劇だけで進行させることが可能です。
平たくいってしまえば、日常系としてやっていくこともたやすいということ。
しかし、プリマジはその線を捨ててストーリーモノとしてやっていく事を選んだワケなのですが……
そうなった場合、比較する対象が同じくストーリーモノであるプリリズやプリパラになってしまうんですよね。
プリマジが17話以降どうなっているのか分かりませんが、最終的にプリリズやプリパラに肩を並べるような作品になり得るのか。
そう考えたときに、若干の不安はあるなと感じました。

2,チュッピにウケたすぎ問題

チュッピとマナマナの関係性はプリマジ制作側と視聴者の関係性とリンクするというのは過去にも語った通りです。(上で引用した記事)

それを踏まえた上で16話はとても意味のある回だったと言えるでしょう。

16話にこんなくだりがあります。

ウンディーネ「いいかい坊や。昔からね マナマナ……魔法使いは アンタたちチュッピの力を食べて生きてきたのさ。どんなに親切な顔をしてても アタシたちが欲しいのはワッチャ。そのために利用してるだぁ〜け」
〜中略〜
とうま「すみません。あなたが言ってることは嘘じゃない気がする。でも 俺の知ってる魔法使いはそんな奴らじゃないから。なんか不器用で 俺たちとおなじように悩む……そんな奴らだから。話を信じられなくてすみません。でも これが俺の本心だから」
~中略~
ウンディーネ「その姿のままですごいマジを使っては体が痛むでしょう。なぜそこまでするの? エサのために」
ヒューイ「わからない。だから 知りたい。なぜチュッピを……プリマジを見てると俺の心は躍るのか
。力になりたいと思うのか」

16話より



マナマナ=アニメ製作者と考えると、
昔からマナマナはチュッピの力を食べてきたというのは「視聴者の金によって食い扶持を繋いできた」と言い換える事ができるでしょう。
そして、制作側の目的は金銭を得る事であり、そのために視聴者を利用しているのにすぎない。
これがウンディーネのセリフの真意です。(上の通りに解釈した場合)

つまりこの場面のウンディーネは、「アニメ製作者の負の部分を露悪的に見せる役割」を担っていると言えます。

それに対してヒューイのセリフが正の部分を見せる役割です。
「分からないからこそ知りたい。なぜ視聴者の喜ぶ顔が見たいのか」
やはり彼ら(プリマジ制作陣)は、私たち視聴者を喜ばせるために色々してくれているんだなというのが伝わってきました。

それはとても喜ばしい事です。
しかし、行きすぎるとそれは逆の効果を生みます。
そして既に、彼らは「行き過ぎてしまった」と私は感じています。

やはり、彼らのメンタリティは「チュッピはこういうのが好きなんだろ?」に集約されている気がします。
チュッピ(視聴者)が好きそうなキャラデザ。
チュッピが好きそうな性格。
チュッピが好きそうな展開。
チュッピが好きそうなミーム……。
とにかく過剰です。
「好きそう」で塗り固められています。

特に自分が一番危機感を覚えているのがミームです。
どうもこのプリマジは、SNSでの評価を受けることを目的に作られすぎている気がします。

露骨な百合描写は要らないし、露骨なBL的描写も要らないし、なんというか余計な味付けがとても多い印象。

そしてそれら全てはチュッピが喜ぶだろうと思って入れられているというタチの悪さ。

彼らには全く悪気がないので、責めることもできません。

正直、今から語る話は人それぞれだと思うので何とも言えないところではあります。
なのでこれは私個人の意見なのですが、「作品の内容とSNSでの評価は切り離さなくてはならない」と私は思っています。

例えば、プリパラの最大派閥が“らぁみれ派”だったとしましょう。
その状態で“らぁみれ派”に目配せしながらプリパラが制作られたらどうなるか?
(森脇監督はそんな事しないと思いますが、あくまでも仮定の話です)

おそらくファルルは出てこないし、ジュルルもゆいも、なんならアドパラのあまりちゃんすら出てこないでしょう。(アドパラ見てないので分からないですが)

なぜなら、そんな事をすれば「らぁみれ以外のカップリングが成立してしまう」からです。
“らぁみれ”という絶対不変の正解があり、それにそぐわない”可能性”は排除される。
じゃあ何故“らぁみれ”が正解とされているかと言えば「多数派だから」という理由でしかない。

果たしてそんなプリパラが見たいでしょうか?
たしかにアイドルタイムでいきなりポッと出のゆいにらぁらを奪われ、らぁみれ派は辛酸を舐めたでしょう。
しかし、そのおかげで夢川ゆいというキャラが世に出たのです。
私もゆいは嫌いでしたが、見ているうちに段々と好きになり、自分でも驚きました。
あんな体験は日常生活では中々できない事です。
そんな貴重な体験も、多数派に首を垂れていては生み出され得ません。

SNSの多数派に合わせて作品を作るというのはそういう事です。
極端な話「まつりを殺せ」みたいな意見が大半を占めていたら本当に最終回でまつりを殺して唐突に終わる的な事なのです。
(実際に殺されるようなことは絶対にないので安心ですが)

まつりを殺すことに何かしらの意味があるなら良いんです。
「これはこの時代の〇〇を描いているんだ!」とか
「実社会における〇〇の反映だ!」とか
「〇〇のメタファーだ!」とか
「単にオレが描きたいだけだなんか文句あっか!」とかなんとか。

しかし、そのどれでもなく「みんながやれっていうからやりました!」だと余りにも軸がなさすぎる。

商売でやっているアニメである以上、大勢の人気を取らないといけないのは分かります。
しかし、本当に世の中に何かを残しうる作品は「みんなにいいねされたい」とか
「みんなにリツイートされたい」とか
「トレンドワード取りたい」とかそういうレベルで作ってちゃダメだと思うんですよね。

無論、そういうのを狙って作るアニメがあっても良いです。
そして「ここまで言っといて?」と思われるかも知れませんが、プリマジがそうなるなら私はそれでも良いです。
ただ、少し残念だなというだけなので。

3,「プリマジの必要性なくね?」問題【魔法という暴力装置

この問題が最も大きいと思うのですが……「プリマジである必要性ないよね」という話です。
16話にて、ついにウンディーネとヒューイが魔法を直接ぶつけ合うカードバトル的な展開がありました。
この回まで頑なに魔法を暴力装置として使っていなかったので忘れていましたが、魔法って一番暴力と結びつきやすいチカラなんですよね。

よく考えれば過去にも、いきなり空中にドローン出したり地面にバナナ出したりブロック塀だしたりしてました。
例えばドローンにカメラではなく爆弾を積んでおけば爆殺できますし、ブロック塀を誰かの頭の上とかに出せば撲殺できるし、バナナではなく地雷を出せば殺せるワケです。
魔法というのは暴力装置として最も強力なモノの1つだと言えるでしょう。

じゃあ「なぜ魔法で他人を攻撃しないのか?」というと、その理由が明言されていません。
暴力装置として魔法を使用できないのなら、できないという体で話を進めておくべき
(モンスターズインクのように「人を笑わせないとエネルギーが出ない」的な。しかしそういう制約があったとしても、抜け道はいくらでもあるが……)だし、
「あいつ魔法を人に向けやがった!?」
「俺はリアリストだ!」
みたいな倫理観に訴える展開にしたいなら、16話のウンディーネに対する反応でそういう演出をすべきだったと思います。

もしかしたら「“魔法を人に使っちゃいけない”みたいな法規制があって暴力に至らない」とか、「高位の魔法使いがいるからヘタに動けない」というのもあるかも知れません。

しかし、現実の世界を鑑みて、法規制でテロが完全になくなったでしょうか。
国際法によって戦争がなくなったでしょうか。
どんなに対策を講じて、万全の状態を作ったつもりでも、脅威というモノはソレをすり抜けてやってきます。
みゃむの孤独やオブセッションが強烈なモノであったなら、それが真っ先に向かう先は暴力なはずです。
「プリマジでテッペンとる!」みたいな回りくどいマネをする理由はないハズです。

そもそもですが、みゃむの最初の動機は何だったか。
それは「自分がすごい魔法使いであると示したい」でした。
だったら答えは簡単です。
適当な魔法で人殺すなり支配するなりしてチカラを見せつければ良いのです。
それがダメなら、魔法を使って人助けをしても良いし、何か画期的な発明をしても良い。
あるいは何かしらの発信をしてインフルエンサー的なモノを目指しても良いでしょう。

にもかかわらず、なぜ敢えてプリマジなのか?
という根幹の部分に揺らぎというかほころびがあるように思えてなりません。

ただ、コレは「プリマジが魔法の産物である」という設定によって生じてしまった一種のバグのようなモノだと思います。
不幸な事故みたいなモノです。

そもそもプリズムショーもプリパラも(プリチャンは若干情報戦で使えそうですが)明らかに軍事利用とか殺生の道具として成り立たないものでした。
現代社会における「ミームによる文化的な侵略(輸出で敵国の国力を削いで自国の国力を高める、など)」の兵器として使うことはできるかも知れません。
が、少なくともプリズムジャンプやメイキングドラマで物理的に人を殺すのは無理でしょう。

しかし、プリマジは魔法の力です。
行使する形を変えれば人を殺したり支配したりするには充分すぎます。
にもかかわらず、登場人物達がそれをしないのは何故なのか?
その理由を私が今ここで適当に考えても良いのですが、それは作中で明確に語るなり示唆するなりすべきことではないかなと思います。

最後に

というワケで16話について考えてきましたが、正直、自分でも「寒いことしてるな」という実感はあります。

そもそもプリマジは子ども向けアニメです。
そこに大人が求めるようなリアリティを持ち込むのは、砂場で遊んでる子どもたちの輪に入ってギャーギャー喚いてるおっさんみたいな気持ち悪さがあります。

この記事を書いていてより強く思いました。

やはりプリパラまでが異常だっただけで、本来プリティーシリーズというのはリアリティのレベルを求めずに見るべきものなのだと感じます。

今回は何となく書いてみようと思って書きましたが、やはりこういう記事はプリマジの制作側にとっても、プリマジファンにとっても何の出しにもならない記事な気がします。

やはりこの世界は自分のいるべき世界ではないんだなと感じたので、次こそは本当にもうプリマジの記事は書かない気がします。