祖母の夢を見て藤子先生と「宮崎駿」のすごさが少し分かった
※この記事はいわゆる「おばあちゃんについての話題」です。
読んだ後に自分のおばあちゃんに関する思い出を振り返ってしんみりしてしまうかも知れません。
なので、そういうことが嫌だという方は他の記事をお読みになることをオススメいたします。
目次
祖母の夢を見た
藤子先生のすごさ
宮崎駿監督のすごさ
誰もが死ぬ
祖母の夢を見た
今日、祖母の夢を見ました。
祖母は2019年になくなって、それからしばらくはショックを引きずっていました。
最近は時々悲しくなるものの、平常時は懐かしむことができる程度の精神状態でありました。
そんな僕ですが、今日は目覚めたときに顔中が涙でベチャベチャでした。
よく「おしっこしてる夢を見たら、漏らす」などという言葉を聞きますが、
夢の中で泣いていたら、現実でも泣くのかも知れません。
(もちろん、夢の中でトイレを見て、放尿までしていても、現実はなんともないことも多々ありますが)
夢の内容はシンプルです。
普通に祖母に会い、なぜか僕が泣いてしまう(この時点では祖母がすでになくなっているという事に気づいていない)という夢です。
藤子先生のすごさ
起きてすぐに頭に浮かんだのは、ドラえもんのおばあちゃんの回でした。
おばあちゃんの回とは、主人公である「のび太」がタイムマシンに乗っておばあちゃんに会いに行くというエピソードです。
僕は、あらためて藤子・F・不二雄という作家のすごさを認識できました。
「タイムマシンがあったらどの時代に行きたい?」という問いかけに対して
「おばあちゃんに会いたい」と答えたのです。
過去に行って恐竜を見てみたいとか、未来に行ってこれから起こることを知りたいとかではなく、ただ、「失われた人に会いたい」という叶わぬ願いを語ることで、人間の根本的な願望を描いたのではないでしょうか。
宮崎駿監督のすごさ
人間の根本的な願望、と書きましたが、なぜそう思ったかという理由についてお話します。
風の谷のナウシカという作品をご存じでしょうか。
これはスタジオジブリのアニメ映画なのですが、これには原作があります。
それが同タイトルのマンガです。
このマンガはアニメージュにて連載され、映画公開をまたいで完結しました。
このマンガ版ナウシカの中に「すべての人の顔が母親の顔になる」というシーンがあるそうです。(実際にマンガを読んだことがないので断定できずにいます)
このシーンで描きたかったことの一つに「母親と一緒にいたいという、人間の根本的な願望」があったのではないかと、僕は思っています。
(もちろん、凄惨な虐待を受けたり、ネグレクト的な接し方をされた方はその限りではありませんが)
僕は大学で心理学を学んでいるのですが、その中で感じるのは母親という存在の大きさです。
人間のほとんどは、母親の胎内から生まれてきます。
そしてその後、母親から母乳やミルクによって育てられます。
外敵から守られ、オムツも替えてもらい、眠りつくまで子守歌も歌ってもらいます。
子どもにとって母親は、命の恩人以上の存在と言えるでしょう。
このつながりは、やはりとても大きいです。
家庭内で父親が軽んじられる理由の一端にもなっていると思います。
だからこそ子どもは、母親と一緒にいることを求めます。
しかし、実際にそうするためには、余りにもノイズとなる事象が多い。
生活のためには仕事をしないといけないし、家事もやらないといけない。
人間関係のメンテナンスにも時間をかけないといけません。
結局、このかなうはずのない願望は満たされず、人は大人になっていく。
そして、祖母はグランドマザーですからね。
母親と同等の愛着を持ってもおかしくないのではないでしょうか。
誰もが死ぬ
そういうわけで、僕は祖母の死を引きずっているわけですが……
死というのは決して他人ごとではありません。
今のところ、生まれてきたものすべてに確実な終わりが決定されています。
つまり僕もいつか死ぬということです。
僕も、僕の家族も、友人も、他人も、そして何より、これを読んでいるあなたですらも……。
僕たちには不透明なタイムリミットが与えられています。
その時間は延びることもあれば、縮まる事もあり、確かなのは「終わりは避けられない」ということのみ。
夢の登場人物は、所詮、自分のペルソナ(人格)の一つでしかありません。
しかし、たとえそうだとしても
「人はいつか死ぬ。生きているのなら闘え」
と、祖母が言ってくれたのだと信じたいのです。