あえて意味を伝えない事の意味について

もふもふな猫の写真

結論「意味を持とうとしない事が、逆説的に意味を持つこともある」

以前の記事で僕はこう書きました。
「良い文章とは短い文章」であると。

なぜなら、言葉は意味が伝わってナンボだから。

今回はそんな自分の過去の発言に唾を吐いていこうと思います。
題して「あえて意味を伝えない事の意味について」

目次

ブログとは本来、意味のない文章の塊

他人の日記読んでも意味がない

ノイズを楽しむメディア

ノイズは楽しく愛おしい

ノイズのある文章を

ブログとは本来、意味のない文章の塊

僕が思うに、ブログとは「意味のない文章の塊」だったハズなのです。

ブログの語源はWeb Log(ウェブログ)の短縮形です。ネット上に残した記録がブログという事です。

ブログが担っていたのは主に「公開日記」としての役割であり、他人の人生にアクセスすることができることが最大のメリットでした。

(※諸説あります)

「今日はどこどこに行った」

「今日は何々について勉強した」

「今日は誰々と出かけて来た」

など、他人の人生を垣間見ることができます。

それによって筆者に親近感を持ったりして、自分の人生も豊かになる事でしょう。

他人の日記読んでも意味がない

しかし、ここに機能性という視点を持ち込むと話は変わります。

例えばこのような記事↓

どこの誰とも知らない人間がプリチャンのライブに行ったという情報を得て、何になるでしょうか?

「今度 自分もライブに行きます」という人であれば、多少は役に立つかも知れません。

しかし、そうでない限り、この記事は全く役に立たない情報しか載ってない事になります。

そして当然ですが、実際にライブに行く人間よりも行かない人間の方が多いです。

という事は、この記事は「人類のほとんどにとって無意味な記事」と言えるでしょう。

はい。カスです。上の記事は。

しかし、そのような「不必要な情報しか得られないカスみたいな記事」は不必要なモノなのでしょうか?

ノイズを楽しむメディア

前回の記事でも触れたことですが…… ↓

今、Googleで検索をすると「元〇〇が選んだなんとかかんとか4選!」とか

「〇〇初心者必見! なんとかかんとかまとめ!」みたいな記事ばかりが出てきます。

これらの記事は、とても読みやすいです。

なぜならテンプレートがあるので。

問題提起→共感→私はこう突破しました(人によってはここを省略する)→記事本文→いかがでしたか?(手垢まれのクソワード。もしブログを書くなら使わない事をオススメします)

どこのブログを見ても大体この構成です。

テンプレートを決めてしまえば、後はそこに言葉を埋め込むだけなので、簡単に記事が書き上がります。

しかも、読みやすい。

書く側にとっても簡単で、読む側にとっても読みやすい。

なんだ最高じゃないか! ……まあそうなんですがね……。

やはり僕はそこに味気なさを感じてしまいます。

ノイズは楽しく愛おしい

知りたいことが明確に存在する人にとって、知りたいこと以外の情報は「ノイズ」です。

具体例を出しましょう。

僕はカードゲームが大好きなので、カードゲーム系のブログをよく読みます。

で、カードゲームのカードは価格が頻繁に上下します。

株価みたいなモノをイメージしてください。

〇〇というカードが今まで見向きもされていなかったのに、新しく出たカードと相性が良くて値段が10倍に!みたいなこともたまにあります。

そういう、「〇〇というカードが高騰した」という出来事について扱った記事があるとしましょう。

記事の傾向には2種類あります。

  1. 「〇〇が高騰!」という情報だけが載ったブログ
  2. 「今日買ったカード紹介!」というタイトルのブログ

1の記事はシンプルに「〇〇が高騰した!」という事実についてのみ触れた記事です。

メルカリかヤフオクでの取引価格を掲載している場合が多いですね。

気が利いたところだと「なぜ高騰したのか?」という理由まで書いている所もあります。

気が利いてないところはホントに「〇〇が高騰! 値段ドーン! この記事をシェアTwitter LINE Facebook」だけです。(まあ、おそらくは読者にコメントで補足させることによってコメント欄を盛り上げるという狙いがあるのでしょうが)

一方で2の方はと言いますと、こんな感じです。

「先日ショップに行ったら○○が高騰してました! いやビックリです。正直、こんな値段は釣り合わないと思いますけど……。でも、こんなことなら買っときゃ良かったな~。まあ、あったところで使わないんですがw」みたいな。

〇〇が高騰したという事実確認だけを求めている人にとっては、1の記事が望ましいでしょう。

知りたいのはあくまでも、「〇〇が高騰したのはホントなのか?」でしかないので。

そういう人にとって2の記事はノイズが大きすぎるのです。

言うなれば、1の記事は意味の塊であり、2の記事は意味に不純物を混ぜた化合物なのです。

そりゃあ、1の記事の方が意味的な価値は高いですよね。

しかし、です。

世の中に必要なモノは、果たして意味の塊だけでしょうか。

考えてもみれば、「〇〇が高騰した!? ホントか!?」と思ったなら自分でメルカリなりヤフオクなりで検索すればいいワケですよ。

だってネットつながってんですから。

「まとめブログは読めるけどメルカリにはアクセスできない特殊な契約してるから!」なんて事はないわけで。

もちろん、まとめブログにも価値はあります。

高騰や炎上などの「イベント」が発生した際に、みんなで集まって騒ぎ立てる祭りとしての機能があります。

しかしながら、意味の塊というのは「見れば分かるようなことしか書かれていない」ということでもあるのです。

(※もちろん、「〇〇大学が行った実験でこのような結果が出た!」みたいな”その情報を見に行ける人が物理的に限られている情報”の場合は価値があります)

ノイズのある文章を

個人的な体験や、個人的な考えというのは、自分にしか見えません。

そして他人に見えるのは、見せようとした範囲だけです。

しかし、それらの情報を見たところで、人生には何の役にも立たないかも知れません。

役に立つかも知れませんが、役に立たない全くムダな情報であるかも知れない。

それでも僕は、そういう「役に立つんだか立たないんだか分からない記事」が大好きです。

そういう記事を読みたいなと思うし、自分も書きたいなと思います。

僕は今までの記事(得に2019年の記事)は、なんとか意味のあることを書こうと躍起になっていました。

躍起になった甲斐もあり、しっかりと意味のある記事になったものが多い気がすると自負しています。
しかし、不思議なことに、あの頃の記事は「今になって読み返そう」とは1ミリも思えないのです。

自分で言うのもナンなんですが。

やはり、僕が読みたいのは「ほどよく意味が含まれた記事」であり、「意味だけの記事」ではないのだろうなと感じます。

僕はこれから、意味と無意味を内包した記事を書いていきます。

そうすれば少なくとも、僕と似た考え方を持つ人には楽しんでもらえると思うので。

無意味な文章を、ただ無意味につらつらと。

うんち!(意味のない言葉)