カイジという作品について思うこと

結論「カイジは義務教育課程に組み込むべき」

目次

カイジとは

カイジは人間不信かつ人間賛歌の物語

鉄骨渡りはこの世界の縮図

押さない(幼い)人間

誰もが笑える世界のために

カイジとは

カイジとは、福本伸行さんによって連載されている(2021年現在もやってる)マンガです。

アニメ化や実写映画化もされましたし、様々なスラングも生まれたので知ってる人も多いと思います。

カイジは人間不信の物語かつ人間賛歌の物語

主人公「伊藤カイジ」が多額の借金を背負ってしまい、それを返済するために命がけのギャンブルに挑む・・・!というのが物語の基本骨子。

作中には既存のギャンブルの他、オリジナルゲームも登場しますが……

今回はその中でも、鉄骨渡り編……その中でも人間競馬について触れていきたいと思います。

(ブレイブメンロードは今回の文脈では趣旨違いなので割愛します)

鉄骨渡り編で、カイジ人間競馬というゲームに参加します。

ルールは以下の通り。

  • 20メートルくらいの長さの鉄骨を渡る
  • 鉄骨から地面までは10メートルくらい
  • 渡りきると賞金1000万円
  • ただし、賞金が出るのは2着まで

ルールにもある通り、賞金は2着までしか出ません。

しかし、参加者は10名以上。

という事は、賞金を得るには誰かを蹴落とす必要があるという事。

幸いにも(?)鉄骨の高さは10メートル。

頭から落ちなければ死にはしません。

大けがはしますが。

つまり「痛い目を見るが、死にはしない」というワケです。

この構図、どこかで見たことがありますね。

そうですね。今我々が生きている資本主義、競争社会の構造そのものですね。

鉄骨渡りはこの世界の縮図

ゼロサムゲーム※1の世界において、勝者は敗者なくしてありえないのです。

(※1 別名、零和ゲーム。「誰かが勝つと誰かが負けるゲーム」のことです。最たる例は椅子取りゲームなど)

誰かを蹴落として自分の椅子を確保しなければ、自分が敗者になってしまう。

負けたくないのなら、誰かを押しのけてでも座る。

それができないのなら、負けを認めて勝負を降りる。

「昨日全然勉強してないよ~」などと言い合って互いを牽制したり、

「絶対一緒に受かろうね!」と言い合いながら腹の底では「コイツが受かれば自分の枠がなくなるかも知れない……」と警戒したり、

他人を押しのけて企業面接を受けたり。

よくよく考えてみると、人生なんてそんなことばかりです。

他人を蹴落としてまで何かをしようとは思わない。

しかし、かといって誰かに蹴落とされるのもイヤ。

気は進まないけど、まあ蹴落としておくか。

落とされた方も、どうせ死ぬわけじゃないし。

悪く思うなよ。

僕も自覚していないだけで、数多くの人々を蹴落としてきたと思います。

きっとあなたも。

押さない(幼い)人間

鉄骨渡りが進んでいく中で、カイジは選択を迫られます。

目の前の人間を落として自分が前に出るか。

それとも押さないか。

迷っているうちに、カイジの後ろの人間が追い上げてきます。

モタモタしていると自分が落とされる。

散々悩んだ結果、カイジは答えを出します。

「押さない・・・! 押さないんだ・・・!」

押さない。

前の人を押せば自分は助かる。幸せになれる。

落とされた方も致命傷にはならない

しかし、それでも押さないという選択を取りました。

彼の判断は、勝負の観点から見れば「甘い」「クレバーさが足りない」という評価になるでしょう。

何せ、自分が押そうが押さなかろうが、他人は容赦なくカイジを押しにくるのですから。

この点において、カイジの押さないという選択は「幼い(青臭い)」と言わざるを得ません。

僕は性悪説(人間は生まれながらに悪人という考え方)を信じているので、

「これじゃ一方的にカイジがやられちゃうよ!」と思いました。

しかし、その反面、カイジの選択にどこか安心している自分がいました。

自分が押さなければ誰かに押されてしまう。

たとえそういう状況だったとしても、押さない。

この一見道理に反した行為。

それこそが本来の人間らしい行様なのではないか……?

昨今は、自分が幸せになるために、他人から幸せを奪うようなことが多いです。

(余談ですが僕が通ってた塾の先生が子どもの頃、学校の先生に「辛いという字に一を加えれば、幸せになるんですよ」と言われたそうです。

しかし、塾の先生は理系だったので「でも先生、質量保存の法則からして何もないところから一は出てこないですよね? じゃあその一はどこから来たんですか? ひょっとして、他の人の幸せから取ってきたって事ですか?」と口答えして説教されたそうです。塾の先生は笑い話として語っていましたが、今振り返ってみると笑えません。この世界のあり方を見事に言い当てているから……)

自分が幸せならそれで良い。

他人のことは自分が幸せになってから考えるよ。

そういう生き方でも、人は笑顔になれると思います。

だけど、それは誰かを泣かせることになる。

自分ひとりの笑顔の裏で、少なくとも1人以上の泣き顔があるワケです。

僕はそれを悲しいと思います。

もしかしたら僕は、というか僕たちは、もう競い合うことに疲れたのかも知れません。

だからこそ、他人を蹴落とすことを否定し、結果的に競い合うことを否定したカイジに、僕は安心したのかも。

誰もが笑える世界のために

全員を笑顔に……するのは無理でしょう。

どうあっても全人類が同時に幸せになることはムリだと思います。

人々は、競い合うことの楽しさを知ってしまった。

そこから逃れるのはムリです。

これからも人は人を蹴落としていくでしょう。

ゲーム感覚で、いともたやすく。

しかし……

人を押せば自分は幸せになれる、落とされた方も致命傷にはならない。

たとえそんな条件下だったとしても、それでも押さない選択を取る。

僕はそれこそが、人間のあるべき姿なのではないかな?と感じます。

せっかく知恵を持ち、本能に逆らうことができるようになったんです。

ヒトだからこそできる事をすべきなのではないでしょうか。

転売が社会問題になっている昨今。

他人を蹴落として自分の席を確保する事が事実上推奨されている世の中。

誰かが沈めば自分は助かる。

助かるために沈める。

それは日常の中で当たり前に行われる動作。

しかし、果たしてそれでい良いのか?

全員を笑顔にするのはムリでも、せめて泣かないといけない人が減るように生きたい。

カイジは、そんな気持ちにさせてくれる作品です。

自分さえよけりゃいいぜ!と思っている人に是非読んで欲しいですね。

でもまぁ、自分さえよけりゃいいぜ!と思ってるタイプの人はこんなの読んでもピンとこないと思いますが……。

(ギバー・マッチャー・テイカー問題)

なんかもうカイジは義務教育課程で全員に触れさせるべきなのではないかと思います。

思考体系が凝り固まって矯正不可能になる前にカイジを見せて、思考回路にしっかりと焼き付けさせるのです。(危険思想)

クェクェクェクェクェクェ・・・

してもらうぞ・・・利根川・・・

焼き土下座を・・・!

ぐおおおお!!

↑「カイジ」による教育を受ける小学生

ククク・・・!

↑悦に入るワシ