作者の個人的な物語として見る【アニメの見方】

Amazonより

 

前回

 あらゆる作品には作家の主観が含まれる。
個人が作っている以上、そこには制作する人間の意志が介在する。
これは絶対だ。
おそらく世界中を探してみても「私は完全に客観的に創作してます!」などという者は居るまい。
たとえ客観的な方法でサッカーマンガを描いたとしても「サッカーマンガを描こう」と決定を下したのは本人の主観に他ならない。
まぁそれはあくまでも例え話だ。
伝えたかったのはひとつ。
それくらい作品は「主観のこもった個人的なもの」であるという事だ。

 この見方は作品について考える時、とても意義深いフレームになる。
そのフレームがもたらす新しい見方は、きっとあなたの知的好奇心を刺激する事だろう。
今回はその例を紹介し、一緒に見ていきたい。


(※本記事はアニメの見方シリーズの記事のひとつとなっている。
今回のような「作品を読み解く手法」について重点を置いた記事なので興味があれば読んでいただきたい。
また、このシリーズのみで追いかけている人にとっては「え? コイツ前回と今回で口調変わりすぎじゃない? ゴーストライター?」と思われるかもしれない。
ゴーストライターではなくしっかり手動で書いているのでご安心いただきたい。
ゴーストライターを雇う金も必要もない。
むしろ誰かに雇ってほしい。
そして仮面ライターゴーストと名乗りたい)

 まずはこの作品。チェンソーマンだ。

これを読んだ後にプラチナエンドを読むと、その不幸描写があまりにも陳腐に感じてしまうという不思議体験を味わえる。



チェンソーマンの内容について一言で説明しておくと、「悪魔が当たり前に存在する世界で奮闘するデビルハンターの話」となる。
まぁこの辺は直接読んだ方が早いし、直接読んだ方が絶対面白い。
私がどうあがいてもチェンソーマン本編より面白く伝えることはできない。

プラチナエンドの不幸描写が画一的なテンプレ表現であるのに対し、チェンソーマンのそれは身に迫る等身大の恐怖として描かれるだが、何よりすごいのは、そのような過酷な運命にめげるでも立ち向かうでもなく、ただ共存しているデンジの姿勢である。一見の価値は間違いなくある。



↑第3話まで無料。

さて、今回注目するのはチェンソーマン2巻だ。
2巻にて登場人物が一気に増える。
この巻で主要キャラであるアキと姫野が合流するのだが、それが以下。

アキチーム
・アキ(リーダー)
・デンジ(部下)←主人公
・パワー(部下)

姫野チーム
・姫野(リーダー)
・荒井(部下)
・コベニ(部下)


2巻は基本的にこのメンバーで話が進行していくのだが、この構造が面白い。
チームリーダーと部下の関係性が、ジャンプ編集者とマンガ家に見えるのだ。
ご存知の通り、編集者は1人で複数のマンガ家を担当する。
担当は時にベテラン作家である時もあれば、持ち込み原稿を読み「キミ才能あるね! ウチで一緒にやってかない?」と見初めた新人の場合もある。
(※基本的に持ち込みの電話に応対した編集者がその作家の担当となる。ジャンプ以外でも大体はそうらしい)

で、この2巻だ。
2巻でこんな感じのやりとりがある。

姫「アキくんのとこの新人はどう? 強い?」
ア「こいつは強いなと思ったヤツもそうでないヤツも 1年もあれば死ぬか民間に行きます」

字面の通り見ればこれはシンプルに、デビルハンターという職業の過酷さを表す文言となる。
だが、ここに編集者とマンガ家という視点を加えるとどうなるか。
それはこうだ。

姫「アキくんのとこの新人(作家)はどう?」
ア「こいつは上手いなと思ったヤツもそうでないヤツも 1年もあれば死ぬ(引退)か民間(同人)に行きます」

あるいはこうか。

ア「こいつは上手いなと思ったヤツもそうでないヤツも 1年もあれば死ぬ(枯れる)か民間(月刊)に行きます」

それともこう?

ア「こいつは上手いなと思ったヤツもそうでないヤツも 1年もあれば死ぬ(字面通り死ぬ)か民間(同人)に行きます」

あるいはここにはない別の解釈の仕方もあるだろう。
ただ、今あげた例に絞って話をするのであれば、このシーンは「マンガ家という職業がいかに過酷か」を語ったシーンとも取れる。

作者の藤本タツキはインタビューで「ストーリーやキャラクターに対して愛着を持たない」ことを語っている。
それは確かに読んでいて感じる。
なんか鳴り物入りで出てきたキャラとかいきなり死ぬしな。

とはいえ、モチーフ単位ではその限りではない。
エンドレスエイトオマージュ(藤本タツキはアマチュア時代、「長門は俺」と名乗っていた。当時「長門俺の嫁」と口走るオタクは多かったが、「長門そのものになりたい」というのは珍しい気がする。この「愛する者と一体になりたい」という願望は後にチェンソーマン第1部最終回にてラスボスを出し抜く秘策に昇華する)
やさまざまな映画パロディなど、自分の思い入れのあるモノを積極的に取り入れている。

本人が自覚した上でのことか、それとも無意識のことかは分からない。
ただ、アキと姫野の立ち位置を編集者と捉えるのはそこまで的外れではないように思える。

他にも書きたいことはあるが、長くなりそうなので今日はこの辺で切っておこう。


あ〜あ〜〜
ホントはな〜〜
プラチナエンドバクマン。から見る大場つぐみの女性観」とか語りたかったのにな〜〜

バクマン。劇中作のЯeversiから読み解く大場つぐみのマンガ観」とか語りたかったのにな〜〜

「一連の大場つぐみ作品においてなぜ大場つぐみは同じテーマを反復し続けるのか?」とか語りたかったのにな〜〜

ああ〜〜あ! 残念だなぁ〜〜〜マジでほんとによ〜〜!




















大場つぐみ「……」





うぐぅっっっ???????
ふぎっぐっ
ぐっ ぶっ ぶっ ぼっ……




なめ「……」
母「なめ〜ご飯よ〜」
母「……なめ?」
なめ「……」
母「……! こ……こいつ」
母「……死んでいる……!」




一八八九年 2月7日
なめサン・ジョースター
死亡