デスゲーム系を「チープだ」と感じる理由の一つについて トモダチゲーム

(※この記事で取り上げるのは理由の内のひとつでしかありません。

なお、ここで書かれる内容は全て私の個人的な主観でしかない事をここに明記させていただきます)

物語にはいくつかの型がある。

その中でもかつて支配的なまでの力を見せたジャンルがあった。

それがデスゲーム系である。

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https://abema.tv/channels/abema-anime/slots/97vCVtk7hVhzqVより

4月5日に「トモダチゲーム」のアニメが放送開始した。

一応あらすじを書いておくと、こんな感じだ。

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主人公、片切友一は貧困に喘ぐ高校2年生。

バイトでなんとか生活費を稼ぎながらひとり暮らしをしている。

そんな彼にとって、修学旅行の代金7万円を用意するのは簡単ではない。

やっとの思いで7万円を稼ぎ、無事提出した方切。

しかし、翌日、クラス全員が提出した修学旅行代金およそ200万円が盗まれてしまう。

その後、なんやかんやあってデスゲーム。

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最後は投げやりだが、まぁ気になる方はぜひ原作を読んでみて欲しい。

トモダチゲーム - 原作/山口ミコト 漫画/佐藤友生 / 【第1話】あれ? 友一君は友達を疑ってるの? | マガポケ (shonenmagazine.com)

ただ、この記事を読むための知識は上の情報だけで事足りる。

さて、ここからは率直な感想を述べよう。

私はアニメの第一話を偶然目にした。

その時に感じたのが「ああ……なんてチープなんだろう」という感想であった。

これはアニメの話だけではなく、ピッコマかなんかで原作を読んだ時にも感じた事だった。

キャラの紹介をベタ打ちの文章で表してしまう所とか、テンプレ的な困窮描写とか、そもそも200万の大金を生徒に管理させるなよとか色々ツッコミどころはある。

が、それらはほんの些事でしかない。

この作品の第一話において最もチープだと感じたのは「修学旅行費が盗まれたという展開」そのものだ。

金八先生で泣くヤツはもう居ない

修学旅行代金が盗まれた。

このイメージの元となっているのは、おそらく給食費盗まれた、だろう。

給食費盗まれた!」

「お前が盗んだんだろ! 貧乏だから!」

「違うよ……! そんな事してないよ……!」

みたいな展開はもうお約束というかテンプレだ。

給食費と修学旅行費は全く別物だが、物語上における機能はほぼ同じである。

つまり、「代金を払えるだけの経済力があるかどうか」を表す指標となるのだ。

なので、そのエピソードで貧乏キャラをメインに立たせたい場合には多用される。

(あるいは貧乏ではないのに盗みを働き、「なぜそんなことを?」という追求につなげたり、9.11以降の「理由なき悪意=個人的テロリズム」の描写につなげたりもできる)

ことトモダチゲームに関しては従来の使い方である、貧乏エピソードとサスペンス要素の加速にあてている。

しかし、だ。

どうもここに違和感を覚える。

作者が意図したであろう導線にうまく乗れない。

深刻さや引っ掛かりを覚えて欲しいところのはずなのに、なぜかスルリと抜けるというか……なんだかガクッと力が抜ける感じがする。

これが何故なのかと考えていた時に、漫画学校でジャンプ編集部の林士平氏が言っていた言葉を思い出した。

「泣かせるための死亡シーンがチープにならないためにはどうすればいいですか?」

林 チープという感情は「見たことある」から生まれて、その回数が多いほどチープになるんだと思います。だから演出や言葉や構成が、他の多くの作品にもあるかどうか。定番過ぎる「死亡フラグ」は、もはやギャグですよね。でも、しっかり関係性までを描いたキャラクターの死が周囲に与えるドラマ、それ自体はチープにはなりにくい。それをどう見せるかだと思います。

ジャンプの漫画学校講義録⑧(https://jump-manga-school.hatenablog.com/entry/08)より

死亡シーンとは少し違うのだが、本質的には同じことが言えると思われる。

トモダチゲーム側としては、この問題について重みを感じて欲しかっただろう。

が、この手の給食費盗まれた的な展開はもう何十年も前から擦られまくっている題材だ。

実際、かまいたちのコントでもこれを題材にしたネタがある。

つまり、(本当は良くない事ではあるのだが……)「給食費盗まれた!」はもはやギャグなのである。

それを無理やりシリアスな場面に持ち込んだ結果、とてもチープな印象を受けてしまうのだろう。

少し違うが、金八先生にも「給食費を払えなくて発生した問題」について触れる回がある。

当時はそれが切実な問題として扱われたのかも知れないが、今はもうそうではない。

金八先生で泣くような人は流石にもう居ないだろう。

デスゲームもまた然り

さて、「繰り返されるほどチープ」という林士平氏の言葉だったが……

これはまさしくデスゲーム系というジャンルそのものにも言える事ではないだろうか?

そもそもデスゲーム系(≒バトロワ)が隆盛を極めたのはゼロ年代だ。

バトルロワイヤル、カイジGANTZ仮面ライダー龍騎……そしてデスノート

(※デスノートwikiによるとデスゲーム認定されていなかった。そう言われると確かにデスゲームとは若干違う気もする。が、ここでは一応入れておく。デスゲームとデスノートって語呂もいいし)

この背景には激化する受験戦争やホリエモンなどリバタリアン(簡単に言えば「お前が不幸なのはお前が悪い」という自己責任主義)の台頭があると言える。

そういう「やらなきゃやられる!」みたいな空気感が蔓延していた時代だったからこそ、デスゲームは世の中に受け入れられたし、あれだけの数が濫造された。

しかし、裏を返せば、視聴者はそれらを浴びるように見てきた訳だ。

となれば、デスゲームという題材自体が既に何度も繰り返されている事になる。

そのために、デスゲーム系は、もはや果てしなくチープな作品群となっているのではないか。

実際、ハライチのネタでもデスゲームを題材に(以下略)

トモダチゲームとの付き合い

私がトモダチゲームを始めて読んだのは高校生の頃だ。

なので多分、2015年くらいだと思う。

連載が始まったのは2014年なので、おそらくちょうど人気が出てきた頃に読んだ気がする。

……「くらいだと思う」とか、「気がする」などと曖昧な表現をしているところから想像がつくかも知れない。

私は正直、この漫画を面白いとは思わなかった。

私もゼロ年代に少年時代を送った者として、この手のデスゲームは正直見飽きていた。

そしてスマホの中にもピッコマ以外にマンガボックスやマンガワンなども入っていた為、程なくして読まなくなった。

で、2022年。

「高校生」だった私も今や立派な「無職(今年の3月で大学を卒業した)」となった。

そんな実家暮らし無職たる私が再び見たトモダチゲームは、果たしてあの頃のままであった。

そして、トモダチゲームを見た私の感想も、あの頃のままだった。

成長していないのだろうな。私も。