アニメの見方「視聴者が冷める瞬間」

目次

挨拶

視聴者が冷める瞬間

理不尽な後出しじゃんけん

ムダにスケールがでかい

「これはフィクションだ」と気づいてしまう

前回

挨拶

こんにちは。なめです。

最近暑くなってきましたね……などと季節の話題を出せるのは、毎週投稿の賜物でしょうか。

それはそうと、今回も参ります。

視聴者が冷める瞬間

アニメ、マンガ、ゲーム、小説などの創作物を視聴する際に、突然冷めてしまう瞬間があると思います。

事実、僕も感じたことがあります。つい最近に。

具体的には、少し前にSPECというドラマシリーズを見たときです。

ネタバレを避けるためにぼやかしますが……

話の風呂敷がドンドン大きく広くなっていき、最終的には

「えぇ……」

となってしまいました。

ドラマ版が抜群に面白かっただけに、映画版の後半は残念でした。

(映画版はドラマ版と比べて尺が足りないだろうとは思うので、しかたないというのは分かっているのですが……)

今回はSPECから感じた残念な部分をひとつピックして、掘り下げて行くこととします。

理不尽な後出しじゃんけん

映画SPECは、最後の方が完全に後出しじゃんけんとなっています。

実は生きてた! 実は死んでなかった! が連発します。

かなり無茶な論理で現実がゆがみます。

それらはすべて「まあ、お話だから」で片付けられる程度の大きさです。

しかし、それこそが問題なのです。

ムダにスケールがでかい

超能力を知恵で出し抜くという、非常に心地よいバトル展開だったドラマ版に対して、

映画版は

敵「すげー強い能力!」

自分「それよりも強い能力!」

敵「それよりも更に強い能力! 参ったか!」

自分「実はもっとすごい能力も使えます!」

という単純なモノになっていました。

インフレでインフレを押さえつける、いわゆるドラゴンボール型の展開です。

これはこれで悪くないとは思うのですが……

なんというか、最近の仮面ライダーを見ていてよく思う

「CGばっかでアクションが全然ないじゃん……」

という落胆に近いモノを感じました。

所詮これは、フィクションでしかないのだ、と。

「これはフィクションだ」と気づいてしまう

先ほど保留にした問題が、ここで活きてきます。

あとからあとから敵を出していくのも、CGでアクションを置換するのも、

見ている側からすれば「これはフィクション、つまりウソだ」と感じることにつながります。

創作物とは、だいたいがフィクションです。

しかし、視聴者というのは、目の前の作品がウソだと思いながら見るわけではありません

「まあこんなの実際にはないからな!」と思うのは、エンドロールが流れ始めてからです。

創作物である以上、それを見ている人間に

「これは本当にある話かも知れない」と思わせなければなりません。

こんなのウソだ、とわかりきっていたら、何が悲しくて恋愛モノの小説を読むのでしょうか。

これは所詮、他人がチラシの裏に書いた落書きだと意識したままで、本当にその作品を楽しめるでしょうか。

作品を作るということは、他人にウソを語るということです。

そして同時に、そのウソを少しでも信じられるようなつきかたをする。

クリエイターにはそういう義務みたいなモノがあるように感じます。

メタフィクション、ドキュメンタリーは除く)

というわけで、今回言いたかったことは 「そういうユーザーを楽しませるつもりで作られた作品こそ、我々が見るモノなのではないか」ということです。

締め

すみませんが、一身上の都合により、しばらくの間休業させていただきます。

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未定

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