コラムやエッセイのような記事を書きたい

 コラムやエッセイのような記事を書きたい。

これは最近特に思うようになったことだ。

かつての私は「〇〇 やり方」で検索すると真上に出てくるような典型的な記事を書いていた。こういう記事はこういう記事で嫌いではないのだが、別段好きでもない。

 ではなぜそんな記事を書いていたかといえば、「書けたから」に他ならない。

書けたから書いたし、書くことしかできなかったから書いた。それしか取り柄がなかった。

私は何をやってもダメなやつだった。勉強もスポーツも恋愛も友人関係もバイトも何もかも上手くこなせなかった。

小学校から塾に通って多額の教育費をかけたくせに大学受験で失敗した。

部活も良いラケットを買ったのに事実上の退部をした。

たった一回拒絶されただけで友達を作ることを諦めてしまったし、好きだった子もただ遠くから眺めるだけで終わった。

バイトに至っては客と口論になりかけて辞めたし、本当にグズでクズでカスみたいな人間だ。

そんな私でも唯一人から褒められるのが作文だった。私の作文を読んで褒めてくれる大人は少なからずいた。

学校の先生、同級生の保護者、近所の人、あとその〜……ん〜……文部科学省……の……人……的な? 

ホントなんですけど!

福祉の大学に通ってるんですけど!

まぁ今にして思えば、それは幼稚園の先生が「すごいすごい! こうくん絵が上手ね!」と言うようなモンだと理解できる。

だがしかし、かつての私はそれほど賢くなかった。大人たちの言葉がただのお世辞だと気づくのには、実に長い時間がかかった。

具体的には、大学で意気揚々と国語の授業を取り、鼻を折られて恥をかくまでだ。

しかし恥をかいてよかったと思う。

おかげで私の文章能力はそれなりになったし、何より「自分の能力は自己評価ほど高くない」と気づくことができた。

この自覚のおかげで色々と本を読む機会を得た。そしてその時得た知識が、今こうして文を書かせている。

今ではその辺の大学4年間を遊んで暮らした文学部生より優れた文章を書ける自信がある。

(ただしちゃんと4年間勉強した人には勝てないと思うが)

まぁそんなことはどうでも良い。

重要なのは、「私の自慢できることは文章作成能力だけ」という意識がより強化されたことだ。

結局自分の文章に驕る結果になった私は、文章で金を稼ぎたいと思うようになった。

そして始めたのがこのブログである。

さんざん「誰かの助けになれたなら〜」とか「要らないものを買わせてまで〜」とかほざいているが結局根底にあったのはそれだ。

俺はお前たち読者に! 転職エージェントやU-NEXTに登録させることで銭をふんだくろうとしてたんだよ!

ガハハハハハ!!!

まぁ結果、私の一人負けだが。

だがこれで良かったのかもしれない。

もしそんなので金を稼げたりしていたら、今頃このブログも凡百のアフィリエイトブログと化していたか、封鎖されていたかのどちらかだったろう。

そうなればこんな記事を書くことも無かったわけだ。

そう考えるとそれも悪くない結末だと思う

ワケがない。

こんなメンヘラみたいな記事書くくらいならそっちの方がマシだろ良い加減にしろ!

まったく清々しい気分だ。

まるで、澄み渡る今日の青空のように!

雨空のような青空(皮肉)

今の私はかつてのような記事を書こうとは思わない。

今からでも軌道修正すれば、収益を得られるようなブログにできるかもしれない。

しかし、少なくとも今はそういう気はない。

私には違う夢ができたからだ。

かの夏目漱石は言った。

「あらゆる芸術の師は、人の世をのどかにし、人の心を豊かにするがゆえに、尊い」と。

私は、「芸術の師」になりたい。

人の世をのどかに、そして人の心を豊かにする……そんな文章をこの手で紡ぎ出したいのだ。

そして、私にとってそれがどんな文章か考えた結果、頭をよぎったのは学生時代だった。

小学生、中学生、高校生……。

いつだって私は現代国語が好きだった。

模擬試験とかに出てくるような、なんでもない日々を綴ったエッセイや、よくわからない表論文や、何のことか知れない随筆文が好きだった。

今では思い出すこともできない、作品どころか作者の名前すら知らないあの文章たちが、あの作品たちが、私の心を豊かにしてくれた。

それこそが、私にとっての「芸術」だったのだ。

だから私は、自分もそういうモノを生み出したい。

人の心を豊かにするような、「芸術」を生み出したい。

例えそれが、一銭にならずとも。

なぜなら、芸術とは、金銭を見返りに求めるようなものではないからだ。

懐かしいかつての日々、私を感動させたあの作品たちが、私に金銭を求めなかったのと同じように……。

そしてそういう文章を書くことで

塾のテキストに

問題文として

採用されたい。

それによって生じる

印税で暮らしたい。

そんな感じのモチベーションを持って、これからはエッセイを中心に書いていこうと思うぜ!

もちろん今までのようなコラム的な記事も書いて、どっかの出版社に買い取ってもらうことを目標にする!

みんな、応援よろしくな☆

 最近我がブログの直帰率がエグい!!!!!!!! 

 最近我がブログの直帰率がエグい!!!!!!!!

 直帰率とは、サイトを開いてすぐにブラウザバックした人がどれくらいいるかというパーセンテージです。(ちょっと違うけどニュアンスとしてはそんな感じ)

今まではかなり直帰率が低かったのですが、ここ数日で一気に跳ね上がりました。まぁ原因は目星がついています。おそらく書き方を変えたことなのだろうなと思うので、今回はそれについての話をさせていただこうかと。

 今更かもですが書き方を変えました。理由は単純で、ですます調よりも、である調の方が書きやすいし早く書けるからです。ついでに言うと書く内容を整理もしてません。実際問題、この書き方にしてからこちら今日で1週間連続投稿できてますし、記事を書く障壁もだいぶ低くなりました。今までの記事は書く前に内容をまとめて、順番を組み立て、実際に書き、画像を貼り付け、リンクを貼り付け……などとにかく面倒くさかったのです。しかし、現在の書き方は基本的に頭に浮かんだことをそのまま吐き出してるだけなので、ラクです。とはいえ、ひょっとするとそのせいでクオリティが落ちてるのかもなとは思ったりします。でもラクには勝てねぇ〜……。

 文章というのは基本的に「書き手と読み手のバランスゲーム」であると感じています。つまり、書き手が負担を被ることで、読み手は楽に読むことができる。逆に、書き手が楽をしたいと思ったら、その分読者にシワ寄せが来る、と。例えるなら、100点を読み手と書き手に振り分ける感じとでも言いましょうか。読者の負担を20にしようとしたら、当然書き手側が80の負担をすることになります。逆に書き手が10しか背負いたくないと思ったら、読み手の方に90の負担がかかる、みたいな。

 私は今まで読者が楽に読めるような文章を心がけて書いてきました。実際ホントに楽か?というのは別としてですがね。本人はそのつもりでしたということです。ただ、それを続けるのも少々限界が見えてきてしまいました。しっかり丁寧に書くと時間と手間がかかって全然量産できません。そしてなにより無機質な色合いを帯びてしまいます。私は形の整った無機質なブログよりも、個人の顔が見える生々しいブログを作りたいと思っています。自分の目指す方向性的には、今の形がよりベターな選択肢であると考えます。

 しかしながら、それによって読む側の負担が増えてしまうのも事実。書きやすいものを書きたいというのは当然の欲求ですが、だからと言って誰も読まないようなものを出すのもなんだか違う。読んでもらう気がないならハードディスクから外に出す必要がないですからね。

 とりあえずは適度に改行を挟むなどでなるべく読みやすい形を模索していこうかと思います。もしかしたらそれで解決する問題かも知れません。まぁひょっとしたらもっと根本的な問題かも知れませんがね。そんな感じの冬の夜空(2022/03/17)。

冬というにはムリがあるか

デビルサバイバー面白い!

 

 昨日(https://bokutere.com/?p=1664)に引き続いた内容について語りたい。つまるところデビルサバイバーの話題なのだが……今回はデビルサバイバー2ではなく、女神異聞録デビルサバイバーの話題だ。

Amazonより

前回も話した通り、デビルサバイバー真・女神転生、通称メガテンのスピンオフシリーズだ。デビルサバイバーはそのシリーズ一作目に当たる。今日(3月16日)プレイを始めた。前回の記事で「私とデビルサバイバー2の付き合いは長くなりそうだ(ドヤ顔)」みたいなことを書いたワケだが、結局あの後YouTubeで他のエンドも全部見た。思っていたより遥かに短い付き合いとなったね。さよなら。デビサバ2。

 で、早速デビサバをプレイ開始。まず感じたのは画面の見づらさ。いや、これがまたすごい。漢字は潰れていてかろうじて読めるレベルだし、10分くらいプレイしていたら目がショボショボしてくる始末だ。デビサバは2009年、2は2011年発売なのだが、2年でここまで違うのかと驚かされた。UI面でも2より劣っているし、キャラデザもぶっちゃけ微妙だ(つまり2の方がいい)。しかし、デビルサバイバーはそれらの欠点を補って余りある魅力を抱えている。何よりまず評価したいのはストーリーだ。

 デビルサバイバーはハッキリ言ってキャラに魅力がない。それは2にも共通する話ではある。(まぁゆかビッチことゆかりっち似のヒロインは可愛いが。あとゆかりっちはビッチじゃない!!!!(ガチギレ))

 しかし、今回は少し性質が異なる。2のキャラが「キャラ萌えを狙った制作側の魂胆が透けて見えて魅力がない」とするならば、デビサバのキャラは「そもそもキャラ萌えさせる気が全くないので魅力がない」と表せると思う。つまり、2はガチガチのマーケティングによる魅力のなさで、デビサバはそもそもキャラに魅力を持たせる気がないという理由がある。これが意味していることは、「このゲームはいかにして引っ張っていくか?」というスタンスの表明だ。2はキャラ萌えを促しているので「キャラクター劇でストーリーを引っ張っていこう」としている。対してデビサバは「ストーリーそのものの魅力で進めようとしている」ように感じられるのだ。

 随分ストーリーに自信があるんだなと思うが……さすがに言うだけのことはあると感じる。面白いわデビサバ。2より圧倒的に。ストーリーの型としては2がウルトラマンエヴァ)方式に「毎日やってくる言葉が通じない異形の怪物を倒す」という形。一方デビサバは「閉鎖空間内でサバイバル」という形。いかにも「ゼロ年代デスゲーム!」って感じの臭いがプンプン漂う。しかしやはり自分もゼロ年代チルドレンとしてこの空気感がとても懐かしく感じてしまう。「あぁ〜これこれ^ ^」みたいな。10年代に入ってくるとデスゲームモノはどんどん会場が小さくなっていく印象がある。セックスしないと出られない部屋ならぬ、殺し合いしないと出られない部屋(740畳)みたいな。あとは学校内・教室内で殺し合うダンガンロンパ的な。そういう、デスゲームがより「ゲーム」としての側面を帯び始める直前のデスゲームなので、殺伐としたサバイバル感があっていい。デビルサバイバーというタイトルに偽りなしという感じだ。2も2でサバイバーというタイトルがついてはいるが、正直サバイバル感は薄い。「舞台が3都市にスケールアップ!」みたいなのをウリにしていた節があるが、とんでもない。3都市に増えたことで閉鎖空間感が薄れ、ぬるい雰囲気になっている。さらに様々な見た目のキャラクターが和気藹々としている様子を見せられるのも、それに拍車をかけている。サバイバー要素が機能しなくなっているのだ。

 優れた作品というのはしばしば、物語の軸が複数存在する。デビサバの場合は「山手線内でのサバイバル」に加えて「ベルの王位争奪戦」というふたつの軸があり、その背後にほんのりと「なぜこんな事が起きたのか? ナオヤは何をしようとしているのか?」という謎がある。つまり3つの軸を持って物語を動かしているのだ。

 対して2はというと、「セプテントリオンの脅威」「3都市サバイバル」「なぜこんなことが起きたのか?」の3つが用意されているにも関わらず、前述の理由で3都市サバイバルが実質形骸化している。そのため、物語を引っ張る軸は2つしかない。これは正直言って表現の後退ではないだろうか。とはいえ、2はこの欠けた軸に「キャラクターの魅力」を差し込むことで埋め合わせようとしたのだろう。そして世間における2の評価を見るに、その施策はある程度の成功を収めたのかも知れない。アニメ化もしたし。ただ、私個人としては、「純粋にストーリーと設定だけで勝負しよう」という気概溢れるデビサバの方を高く評価したい。

 しかしそうは言っても、2にも優れた部分はある。それは音楽だ。2のメインコンポーザーはなんと言ってもロマサガなどで有名な伊藤賢治が担当している。この事実は見逃せない。私はメロディアスな音楽が好きなので、BGMの面に関しては、デビサバより2の方が好きだ。2は結構気に入った曲も多いのだが、デビサバはかなりハチャメチャな曲が多い。特に戦闘曲は。「やっぱイトケンすげえよ」と思うと同時に「せめて目黒さん起用してくれよ」と思った。

 だけれども、だ。私は2の曲の方が好きだが、「2の曲の方が優れている」とは言わない。なぜなら、デビサバのBGMは他人に聞かせるモノではないからだ。音楽には2種類ある。「聴かせるための音楽」と「演奏するための音楽」だ。例えるなら、クラシックなどのように「美しい旋律を誰かに聴かせるため」に作られた音楽がある。その一方で、メタルのように憤怒や憎悪、絶望などを叫び、発散させる……つまり、「誰に聴かせるでもなく、ただ歌うこと自体に意味がある」音楽も存在する(まぁ本来はちょっと違う気がするが、とりあえずここではそういうことにしてほしい)。で、デビサバに必要なのは上記で言うところのクラシックではなくメタルだろう。メロディとしてハチャメチャであることが、世界観や主人公達の内面を如実に語っている。作品にとってプラスになっているのだ。よく考えるとこのゲームは全てがそうなのかも知れない。キャラデザもBGMもストーリーも、全てが「このゲームをより良くしよう」という方向に向いている気がする。だからこそ、これほどのクオリティの作品を生み出すことができたのだろう。素晴らしい話だ。その素晴らしさを感じながら、今日も今日とてサバイバル頑張るぞ〜!

Amazonより

は? デビルサバイバー

なんだっけそれ笑

☆その男、ミーハーにつき!

中学以来のデビルサバイバー2で感じるむなしさ

Amazonより

 中学の頃、とあるゲームにハマっていた。そのゲームの名は「デビルサバイバー2」。数ある真・女神転生スピンオフシリーズのひとつだ。このゲームとの出会いは、当時購読していたコロコロGという雑誌に遡る。

https://corocoro.jp/bakuren/305949/

ちょうど中学生の頃に発売された(そしてたった4回で休刊した)コロコロGにはデビルサバイバーの特集とコミカライズが掲載されていたのだ。それを読んで、デビルサバイバー、ひいてはメガテンに興味を持つようになった。そこからプレイするゲームの幅が広がり、見識を広めるのに大いに役立った。ありがとうコロコロG。ありがとう小学館。私はコロコロGに育ててもらったも同然だ。あぁ……コロコロGのことを思い出したらなんだか泣けてきた。なぜ休刊したんだ……(明確に休刊と言われたわけでは無いが)。大人の事情か、あるいは売上の問題か。いや、待て。売上の問題だって十分「大人の事情」だろ。じゃあどっちみち大人の事情ってヤツのせいじゃないか! ふざけるな! これだから大人は許せねぇんだよ! え? 私ですか? 23歳(無職)です。いやいや、僕なんてまだまだ子どもですよ。

 一応コロコロGについて軽く説明しておこう。コロコロの姉妹雑誌(あるいは兄弟雑誌?)という立ち位置で、2010年冬に発売開始。夏と冬に発売されていた。コンセプトとしては中高生向けのコロコロと言った感じ。先ほども言った通り、コロコロG刊行は私が中学生の頃だ。少し前までコロコロ本誌の読者だった私にとって、コロコロGは異色の雑誌だった。原作とは違い、ガチデッキ同士の対決を描いた「デュエマ 覇王伝ガチ!」。たった3年で死んでしまう一族の大河ドラマを描いた「俺の屍を越えてゆけ」(のコミカライズ)。ひ弱ないじめられっ子がオーパーツで圧倒的力とついでに彼女をゲットする「ロストプラネット」(のコミカライズ。ちなみにこれはマンガオリジナル展開だ)。そしてまさかのケシカスくん作者が描く乳首解禁のギャグマンガ「TAIMAN」。さらにさらにデュエマ作者の描くダークファンタジー「錬人」。マンガ雑誌なんてコロコロと小学何年生しか読んだことのなかった私にとって目に映るもの全てが新鮮だった。あの時の感動は今でも忘れられない。……まぁウソだが。しかしどれほどあの雑誌が好きだったかは忘れていない。できるならばもう一度読みたい。しかしそれは叶わない。浅はかにも捨ててしまったのだ。本当に勿体無いことをした。というわけで今回は番組の途中だが、コロコロGの魅力について語っていこう。

(中略)

 そのような経緯で、今デビルサバイバー2をプレイしているのワケだが、とても面白い。何が面白いかって、当時と感じ方がまるで違うのだ。今まで見えていなかった部分が見えるようになったとでも言おうか。舞台設定は災害によって荒廃した東京でサバイブするというモノ。まぁ0年代によくあったバトロワ・デスゲーム系だ。デビルサバイバー2事態が2011年発売なので、この荒廃した都市というモチーフはどうしても3.11と重なって見えてしまう。それは今も昔も変わらない。中学生だった私は正直ビビりながらこのゲームをプレイしていた。特にラストはかなりビビった。ネタバレになるのでアレだが、とあるルートでは東京・名古屋・大阪以外の都市が海に沈むのだ。それがやはり津波のイメージと重なって怖かった。しかしその怖さが、逆にこのゲームに対する執着を掻き立てていたと言えよう。怖いもの見たさという言葉もある。それはきっと人間の根源的な欲望の一つなのだと思う。

 今まで語ったのは、今と昔で共通する感じ方だ。では今と昔で変わった感じ方は何か? それは「キャラクターの魅力のなさが見えるようになった」ことだ。このデビルサバイバー2、驚くことに好きになれるキャラが一人もいない。誇張などは抜きにして、本当に一人もいない。自分でも驚きだ。昔はフミというキャラが好きだったのだが、今は昔ほどときめかない。

http://dsexp.atlusnet.jp/2011/10/349/より
フミ立ち絵

シンプルに私が歳をとったというのもあろう。ただ、それ以上に「プレイヤーを萌えさせよう」という魂胆が透けて見えてしまうのだ。そのせいで中々キャラに思い入れを持てない。みんな好きになれない。男も女も。例えば、女キャラならイオ、アイリ、オトメあたりは「男性プレイヤーを萌えさせよう」という意思を感じるし、男キャラならジョー、ジュンゴあたりに「女性プレイヤーを萌えさせよう」という意思を感じる。

 実を言うと私も女キャラならマコトとオトメは好きだ。正直ガチ恋しそうになる。

引用元同上 マコト立ち絵

引用元同上 オトメ立ち絵

でも、それは自分の性癖として「こういう性格でこういう口調の人って萌えますよね……ブヒヒ……フゴッフゴッ」というのがあるってだけで、キャラの魅力とは違う。私のツボにクる形をしているに過ぎない。同じような理屈で、男キャラなら主人公とヤマトが好きだ。が、こちらは単に見た目が私の好みに合致するだけだ。キャラの魅力とは違う。

引用元同上 主人公立ち絵

引用元同上 ヤマト立ち絵

……事実,イラストはとても良いのだ。「夜桜四重奏〜ヨザクラカルテット〜」のヤスダスズヒトがメインのキャラデザを手掛けており、どのキャラもとてもスタイリッシュな絵柄だ。見た目だけなら好きなキャラは多い。しかしネックとなるのは内面だ。どのキャラクターもテンプレの性格設定とテンプレの喋り方でかなり手堅く作っている。キャラデザの出来と掛け合わされて完成度も高い。しかし、だからこそ機械的というか、作為的なものを感じてしまう。とはいえ「じゃあ自分ならもっと上手く作れるか?」と考えると、それも難しいんだろうなと思う。何というか、キャラクターを作るって大変だなというのを改めて痛感させられた。

(ちなみに、ストーリーについてはそれほど悪くないと思う。キャラの言動の不一致や、主人公マンセー、ギャグパートのワンパターンさは気になるものの、タイムホロウよりは楽しめた)

 しかし、そのように感じているにもかかわらず、私はこのゲームを割とプレイしている。すでに2周目をクリアしたところだ。このまま見ていないエンディングを見るべく奔走するか、YouTubeで見てしまうか迷っている。あんなにケチをつけたクセに、なんだかんだガッツリハマっているのである。思えば、TCG仮面ライダーガンダム、アニメ、ノベルゲーム、ボカロ……今の自分の趣味を形成しているモノのほとんどは、中学時代ですでに形成されていた。中学の時に触れた作品というものは、生涯にわたって当人を縛り続けるものなのかも知れない。デビルサバイバー2と私の付き合いは、もう少し続きそうだ。

……というか今とんでもないことに気づいたのだが国会図書館とか行けばコロコロGあるのではな

全てのブロガーのライバル、大石浩二

いぬまるだしっ
少年ジャンプ+より

大石浩二。その名を耳にしたことがある人は少なくないだろう。

……みたいな出だしで書き始めればそれっぽくてカッコイイ感じの記事になるのだが、まぁちょっと無理がある。事実、私自身もこの名前を耳にしたことはなかったワケだし。しかし、彼の代表作の名なら、耳にしたことのある人は少なくないハズだ。そのタイトルは「いぬまるだしっ」(以下、いぬまる)である。

[第1話]いぬまるだしっ - 大石浩二 | 少年ジャンプ+

https://shonenjumpplus.com/episode/10833519556325021921

私は今年で齢24になるが、同年代の方で聞き覚えがあるという方はいることだろう。ジャンプにて掲載されていたギャグマンガだ。私は今も昔も週刊少年ジャンプの読者ではなく、友達に借りたり立ち読みなどばかりで、金を払って読んだ事は無かった。そんな私でも聞いたことのあるタイトル。かなりメジャーな作品と言える。ジャンバン!でもアニメやってたし。そのいぬまるの作者が現在ジャンプ+で連載をしている。タイトルは「トマトイプーのリコピン」。

トマトイプーのリコピン
少年ジャンプ+より

今回はそのリコピンについて語りたい。

 あらかじめ断っておくと、私はジャンプ+の読者ではない。なので今回読んだリコピンも偶然読んだだけだ。故に設定やキャラについては詳しく知らないしよく分からない。しかし、この作品の面白さはそういった所とは別の部分にある。本作はトイプードル的なマスコット的なクリーチャー「リコピン」が繰り広げるチャーミングでハートウォーミングで燃え尽きるほどヒート!!な物語だ。そこに結構な頻度で時事ネタを切るような描写が挟まれ、中々毒がある。感覚としてはマイメロディなどのサンリオアニメに近い雰囲気をまとう作品だ。で、今回取り上げるのは+70話(ジャンプ+に移籍してから70話目の意)である。

[+70話]トマトイプーのリコピン - 大石浩二 | 少年ジャンプ+

[+70話]トマトイプーのリコピン - 大石浩二 | 少年ジャンプ+ (shonenjumpplus.com)

 今回は世の中のウザいと感じることを擬人化(もとい、女体化)した架空のソシャゲ「ウザ娘」というネタで世のあるあるを切っているのだが……。

※執筆日(2022/03/14)現在、この回は無料公開中なので、読める方にはぜひ読んでいただきたい。一応読めるだけの猶予をもうけておく。

[+70話]トマトイプーのリコピン - 大石浩二 | 少年ジャンプ+

[+70話]トマトイプーのリコピン - 大石浩二 | 少年ジャンプ+ (shonenjumpplus.com)

どうだろうか。おそらくガラスの仮面を最新刊まで読破出来るくらいの時間は挟んだので十分かと思う。では、早速本題へ移ろう。

 私はひとめでこの回を取り上げなければならないと感じた。なぜか。

ブロガーネタを

取り上げていたからだ。

それも2つ。

これにはポジティブな感情とネガティブな感情の両方が湧いた。

 ポジティブな方は「よく言った!」というものだ。私も過去に公言しているとおり、この手のブログは好まない。というか嫌いだ。書いている人間に私の鼻くそを腹一杯喰わせてやりたい程度には嫌いだ。しかし、それは私のように実名を隠し、何の社会的責任も負わず、1日80pv程度の閲覧数しかないブログでコソコソと「害悪ブログはんた~い……(小声)」とつぶやくのとはワケが違う。天下のジャンプ+で、顔や名前を晒し、時に下半身を向きだしにしながら「害悪ブログってこう言うことしがちっすよね~w」と叫んでいる。素晴らしいクリエイター根性だと素直に思う。手塚治虫は「マンガに必要なのは風刺だ」と語っていた。大石浩二の姿勢は正しくその言葉を体現しているように感じる。社会に対して大きな問いかけを投げかけうるのはいつだって道化だ。政治家や評論家がワイドショーで何かを喋っても、人々の心へと完全には届かない。それがどんなに真摯なメッセージだったとしても、やはりどこかしらで鼻につく形になってしまう。それを回避できるのが、みんなに笑われるピエロであり、マスコット的な生き物だ。人々は笑いながら耳を貸し、時には「いや、でもアイツの言うことも中々的を射ているよな……」なんて思わせる事ができる。大石浩二は現代のピエロになろうとしている。そんな風に感じられる。

 一方でこれに対してネガティブな思いもある。それは「俺がやりたかったのに!」だ。私もブロガー界隈の底辺の端っこのアリーナ席に属するとはいえ、ブロガーの端くれ。ブログに対しては一家訓ある。本来こう言った話題は、我々ブロガーが自らの手で始末をつけなくてはならない問題のハズだ。私もこのネタをもっと踏み込んだ形で消費したかったのだが、先を越されてしまった感がある。

 無論、相手はプロの表現者だ。アマチュアで素人に毛が生えた程度の私では太刀打ちできないのも無理はない。無理はないのだが、やはり口惜しさも感じてしまう。勝つことは出来ずとも、せめて食らいついて行くくらいの気概は示したい。よりよいモノを世の中に残していきたいと強く思った。うんこちんちん。

十三騎兵防衛圏 「ムービー過多に疲れたあなたに」

公式サイトより

 2019年にPS4でリリースされ、一躍話題となった十三騎兵防衛圏(以下、十三騎兵)。慢性的に品薄状態が続き、しばらくは新品が手に入らないばかりか、中古ですら新品並みの値がつく状況だった。とはいえ、このゲームは各方面で高く評価されている。それを鑑みるに、いつまで経っても価格割れしないというのは妥当なのかも知れない。需要と供給だ。人気があれば高い。人気がなければ安い。むしろ今の状況こそが、このゲームのクオリティを物語っているのではないか。分かるか? 「最強バトルロイヤル!!」よ。

攻略本より安い(ブックオフオンラインより)

 そんな十三騎兵だが、ついにSwitchで移植版が登場する。2022年4月14日発売予定。私も「この作品がすごい」みたいな話は何度も耳にしてきた(というか目にしてきた)。なので、これを機に手を出してみた。とりあえず、体験版を遊んでみることに。体験版は序盤5エピソードが収録され、公式によると「2〜3時間遊べる」らしい。実際プレイしてみると、たしかに2時間半で終了した。そして肝心の内容だが……これはかなり面白い。世間の評価も正当なものと感じる。今回はそんな面白いと感じた箇所を紹介したい。

 ストーリーが面白いとか、設定が面白いなどといった話はおそらく100人いれば100人ともする話だと思うので、ここでは割愛する。このゲームの面白さは開発元であるヴァニラウェアの面白さに繋がる。ヴァニラウェアの過去作には「オーディンスフィア」や「ドラゴンズクラウン」などが挙げられる。これらを見て分かる通り、ヴァニラウェアは2D横スクロールアクションが持ち味の企業だ。そしてその流れを汲むかのように十三騎兵でも2Dの画面が受け継がれているのだが……これが素晴らしい効果を生んでいる。つまり、「ムービーを排除する」ことに成功しているのだ。

 ムービーを排除するとはどういうことか。FFなどが最たる例だが、こう感じたことはないだろうか?

「昨今のゲームはあまりにもムービーが多すぎる」と。

私はFFが好きだが、胸を張って好きだと言えるのはせいぜいFFVIIIまでだ(ただしXIIのレヴァナントウィングは好きだ)。FFはナンバリングを経るごとにどんどんムービーが進化し、演出として発展している。FFXIIIに至っては、もはや実写映画と大差ないレベルにまで到達した。しかし、果たしてそこまでのレベルが必要なのだろうか? たしかにムービーがあれば演出をドラマチックに彩ることができ、感情移入もさせやすいのかもしれない。だが、そのためにわざわざプレイを中断させられるこちらの身にもなってほしいところだ。ダンジョン内を歩いていたらいきなり画面が暗転し、ムービー。数分後、またダンジョン内に戻り動く。するとまたムービー。こんなことを何度もさせられていたら途中でやる気を失う。私は映画を見にきたのではなく、ゲームをやりに来たのだ。少なくともFFにはそれを求めている。もし映画をやりたいなら、せめて最初からシネマティックアドベンチャーゲームみたいなジャンルで販売して欲しい。そうすればこちらもそういう腹積りでプレイできる。念のため申し上げると、私はすべてのムービーに嫌気が差しているのではない。やるドラ小島秀夫監督作品など、最初から「映画的なドラマを楽しむモノ」ならそういうつもりで臨める。ただ、「ゲームとして遊ぶモノ」というパッケージであるにもかかわらず、プレイアビリティを著しく下げてまで挿入されるムービーに辟易としているのである。「すべての映画はアニメになる」とは押井守監督の言葉だが、ある意味においては「すべてのゲームは映画になる」過程を歩んでいる……いや、既にそうなってしまったのかもしれない。

 あくまでも私にとってだが、ゲームに必要なのはグラフィックでも豪華声優でもない。『物語』だ。ここでいう物語とは、いくつかの意味がある。ひとつはシナリオライターが書いたモノ。もうひとつは、「このゲームをやっていたことで友達ができた」というようなプレイヤー自らが紡ぐ個人個人の人生の物語である。最低限必要なのはそれだけで、あとは割と余計なものなのではないだろうか。「圧倒的美麗グラフィック!」や「豪華声優陣!」などの宣伝文句は、中身のないゲームほど用いがちだ。とくに有象無象のMMOゲームアプリはみんな言ってる気がする。そうすることで集客を見込めるからなのか私には分からない。ただひとつ言えるのは、ひとりのユーザーである私が求めるものはアニメ映画のようなグラフィックでもなければCV花澤香菜櫻井孝宏のキャラでもないということだ。私はGBAとDSに人生の少なくない時間を割いてきたが、その中で感動したゲームは必ずしもボイスがついているものではなかった。もちろん、グラフィックもたかが知れている。それでも全く遜色なく楽しむことはできていた。昨今のゲームは過剰だ。ムービーが多すぎる……という説明をこんなに長々クドクドとしてしまうあたり、私も十分に過剰だ。ゲーム制作者たちがムービー挟みたくなる気持ちも実は分かる。つい、やっちゃうよね。

My Nintendo store より

 さて、話を戻そう。もうあなたはお忘れかもしれないが、この記事は十三騎兵の話なのだった。私はすっかり忘れていたよ。この十三騎兵は2Dで話が展開される。そして基本的にムービーが挟まることはなく、ずっと定点観測的にキャラクターの動作を見守るのだ。それはまるで舞台劇を見ているかのようである。FF的なゲームが映画の視点を用いる表現と呼ぶならば、十三騎兵は舞台劇の視点を用いる表現と呼べるだろう。おそらく万人がこの舞台劇の視点を好むということはないだろうが、少なくとも私は好ましく思う。画面内でキャラクターたちは演技をし続ける。それを暗転やロードなどで遮られることもなく、ただただシームレスに眺める快感。これは映画の視点ではなかなか出せない味わいだ。また、ムービーを挟まないことで、逆説的に全シーンがムービー的な側面を担っていることも無視できない。(無論、すべてがすべて自由というわけではないが)FFならムービーとして処理されるであろうイベントも平常時の画面で進行し、その間も主人公は動き回ったりできることもある。3Dモデルの進化やエンジンの進化などでゲームが映画っぽくなる流れは今後も続くだろう。そんな世界の中でもヴァニラウェアは異色の存在として全く別の道を歩む。そういう意思表示のようにも見えた。

一生ついて行きます! 神谷さん! まぁヴァニラウェアのソフト買ったことないんですけどね。

というわけで、十三騎兵は「ムービー過多のゲームに疲れた」という人には特にオススメしたいゲームだ。

 私の稚拙な文章ではいまいちピンと来なかっただろう。百聞は一見にしかずと言う。実物に触れればこんな記事が必要ないくらい理解できると思うので、ぜひ無料体験版をプレイしてみてほしい。PS Store、My Nintendo store でダウンロード可能だ。

そして気に入ったならぜひプレイしてみて欲しい。

繰り返すようだが、Switch版は4月14日発売予定である。Switch版が待ち切れないなら、PS4版を買うのもアリだ。

私と一緒に十三騎兵を防衛しようぜ(?)

西暦1985年で、

ぼくと握手!

ドゥンドゥン トーキョードームシティー